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~ごえんさんと慕われるよろこび~

 

 

 「私はチャペルで結婚式を挙げました」

この言葉は、得度習礼(僧侶になるための行)に行った時、カリキュラムの一つにあった「懺悔の時間」で述べた言葉です。多くの参加者は、親、兄弟、友人、恩師等、人生においてお世話になった方々への背信行為を悔やんだ思いを述べた内容が大半だったと思います。

笑いを取る気持ちなど微塵もなく、僧侶を志す者としてあるまじき行為だったとする精一杯の懺悔の気持ちでした。結婚した時は、自分が後に僧侶なるとは知る由もなく、寺の子として生まれた訳でもなく、信仰心を持って生きてきた訳でもなく、誰かに勧められた訳でもなく、大志を抱いた訳でもなく、ただ「ご縁をいただいて」としか言いようのない私なのです。会場は大爆笑。それもそのはず、寺の息子、娘、住職の伴侶等で占める参加者からすれば、型破りの自由人だと映ったに違いありません。

 そんな紆余曲折はありましたが、天台宗から浄土真宗寺院と時を重ねて十世紀、千年続く第二十六世住職で在職十五年が経過しました。僧侶を「聖職」と言う方もいれば、「大嫌い」と言う方もあります。日本語はおもしろく、僧侶を揶揄する言葉の代表的なものがあり、「馬の耳に念仏」「弘法も筆のあやまり」「坊主丸儲け」「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」「師走」の語源等、皮肉ったものが複数あります。実にやりがいのある身の上ではないでしょうか。

 そこで、まだまだ経験も浅く未熟な私ではありますが、今の私が想うこと、住職としての使命は何なのかをお話したいと思います。私も年をとってきたのでしょうか。「今の若い者は」と、つい出てしまいます。幼少の頃から聞きなれた言葉ですし、時代劇を見ていると時折でてくる台詞です。いつ頃から使われるようになったのでしょうか? 先日テレビを観ておりましたら石器時代の洞窟の壁に書いてあったようです。笑ってしまいました。つまり、人間が存在する限り次世代を心配するあまり、つい出てしまうということです。不変なのでしょう。その一方で良い方向に変わったとは思わないことがあります。利己的と申しますか、自分が中心でなぜ自分が今、生きているのか考えてもいないように思います。お釈迦さまが説かれる「縁起」の法則です。因果とも言います。原因があって結果があるということです。親があって自分がある。祖父、祖母があって親が存在したことになります。私が申し上げたいのは、今の自分があることは偶然ではなく必然的な結果であり、生きているというより、生かされているということです。

この真理に気づくと、ご先祖様に手を合わしたくなる感情が沸いてきます。

合掌であり信仰心の始まりです。この気持ちが重要であり、お墓の存在こそが「因」、お参りすること、足を運ぶことが「縁」となります。その結果、幸せを感じる心「一生の安心」がうまれるのです。なぜお墓が必要なのか。一般的な考えですと、ご先祖様の供養もありますが、自分がなぜ生きているのか、生かされているのかを気づかせてくれるきっかけ「ご縁」をいただいているところだと私は思います。

 人生100年と言われるようになってきました。昭和、平成、令和と時代の移り変わりと共に人の死に対する考え方がずい分変わってきたように思います。簡素化、経済的な理由、少しでも安価に。その対象は葬儀の在り方や墓に対するものだけではなく、仏法や寺院の存在を軽視することにはとどまらず、命の重ささえも経済的価値観や自己中心的思考の前に後退しつつあります。

お墓は、仏法とご先祖様、今の私を繋いでくださるものです。

決して排除される存在のものではありません。

しかし、時代は動いています。

「そんな時代の受け皿に」 私が納骨壇(室内墓)を考えた理由です。

 

    「墓じまい+室内墓+墓参り代行+管理」= 一生の安心

               

浄土真宗本願寺派 明厳寺

​第26世住職  高田 義紀

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​   住職ごあいさつ

​住職プロフィール

高田 義紀(たかだよしのり)

昭和42年生まれ(52歳)

福井県鯖江市生まれ 鯖江市在住

家族 妻、長男の三人家族

 

職業・資格

浄土真宗本願寺派僧侶・教師

松光山 明厳寺住職

日本カウンセラー協会認定カウンセラー (福井県内、高等学校、中学校、小学校にてスクールカウンセラー)を務める

​介護士 (小規模多機能型居宅介護事業所勤務)

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